金魚ちゃんをインストール

憂鬱系青羊な RM307 の月一エッセイブログ Since 2011

週一ブログ→ https://rm307.hateblo.jp/  非公開コメントは Web拍手 へ!匿名でお送りいただけます。

地震から一年

このブログを作ったのはその数日前の事。
テレビは怖くて見られなかった。写真だけでも怖くなってしまった。
(今も向き合う事ができず逃げ続けている。弱い。子どもだ。)
僕が住んでいる地域は被災地から遠く離れていたので
震災や原発の影響は何も心配要らなかったのだけど、
余震の情報を聞くたび・ニュースサイトを開くたびに
大切な人が居なくなってしまうかもしれないという恐怖で
焦るような、落ち着かないような心持ちだった。
(こういう感情も何かに依存してるが故のモノだったのかな。)
幸いその人たちは無事だった。本当に嬉しかった。
(こういう僕の一方的な感情は相手からすればウェイトでしか無い。)
新都社の国元兵太先生の事を時々思い出す。
コメント欄や本スレでは安否を心配する声が寄せられている。
お元気で居て欲しいと思う。


「誰かに必要とされていたのに亡くなってしまった人、
今も辛い生活を強いられて苦しんでいる人がたくさん居るのに、
どうして自分みたいな人間がのうのうと生きているんだろうな」
とよく考える。誰だってそういう事あるよね。珍しい事じゃないはず。
「そういうのっておかしいよ。『神様の思し召し』とかよく言うけど、
絶対に選択を間違えている。自分が生き残っている事が許せない」
みたいな思考って思春期っぽい気がするけど、この歳になっても考えちゃう。

自分が死ぬ口実にしたいから/誰かの命の代わりになれるという
自己満足的な気持ちからそう考える事は無い。その辺りは大丈夫。
昔はそうだったけど。そういう部分は少し成長している・・・と良いな。
でも、それは何にもならない。
もし今自分の目の前で誰かが傷ついたり損なわれようとしていたら、
僕は全てを捨ててでもそれを防ぐ事ができるんだろうか・・・
無理かもしれない・・・やっぱり口だけの人間だ・・・
いくら相手を想っていたとしても、それでは何の意味も無い・・・
汚い醜い浅ましい・・・。
という思考のプロセスは今も変わっていない。本当に子どもだ。


今日は吐き気も無いし胸や胃が痛む事も無い。
ずっと考えてやっぱり生きていくの無理、と思ったら
一周回って気が楽になったのかもしれない。ブログを書く余裕もある。
明日になるとまた元に戻るのだろうけど・・・。
やっておきたい事をメモ帳にピックアップすると、結構多くて困る。
次はその事でも書くとしようか。
「次」がある事を何の疑いも無く信じられるような性格では無いのだけれど。